狩鞍
夕刻、初芝から抜ける街道沿いの林を獣のように狩田平四郎は駆けていた。
「どうやら、逃がしてはくれぬようだねぇ」
「…葉子、呼吸が乱れる。黙っていろ。ハッ、俺が逃がしはしないわ」
葉子と呼ばれた女は、夕日に照らされて血の色のように赤い桜の花びらを咥えて笑った。
「すみませんよ」
夜半過ぎ、中瀬川に沿った宿外れで、平四郎と葉子は茶室に入った。
「あら、いらっしゃいま…」
中年の女房が、平四郎と葉子の異様な風体を見て、言葉を止めた。
平四郎は『今、山から降りてきた』という様相、伸びに伸びきった髪を無造作に縛り、不精髭は伸び放題である。腰にこそ二刀を差してはいないが、戦国時代の豪傑、と言っても差し支えない体躯であった
また、片や葉子の方は、遊郭から連れてこられた若い遊女のように、艶っぽく美しかった。病気のようにぬけた色の白さと唇の赤は、まさに女郎花のようであった。
この組み合わせだけでも十分であったが、二人が殊更に奇異に見えるのには、葉子が平四郎の着流しの中に、抱かれるように寄り添っていたからだ。
まるで男の体から女が生えているかの如くに。
平四郎の首にしなだれかかるようにしている葉子が、ゆっくり口を開いた。
「冷で良いから茶碗に入れてくださいな」
「…あとな、うどんでもなんでも良いから熱いのをくれ」
その声に女房はびくりと震えると、何かに操られるように台所の奥に引っ込んでいった。
「女の方が気がつくな」
「そりゃ男どもがいっつも、ぽさっとしてるからさ」
「……ふん、そんなもんかね」
確かに店の中には、何人かの行商や脚半をつけた旅人風の男たちがいたが、平四郎と葉子に注意を向けるものは、誰一人としていなかった。
「そうそういるものじゃないよ、狐憑きされているカリグラを見分けられるなんてね。普通は気がつかないか、ちょっと様子ががおかしいか?って思うぐらいなもんさ。ま、あとは本当にここのおかしい奴かね」
葉子は人差し指を頭の上でくるくる回した。
「……ふん、そんなもんかね」
「なんだい、何か言いたそうな物言いだね」
葉子が平四郎に吠えかかったとき、勢いよく二人の目の前に湯気の立つうどんと、冷酒の椀が二つ置かれた。
「おや好い匂いだね。あらら、油揚げが入っているじゃないのさ。わかってるわねぇ」
平四郎が見ている前で、葉子は厚く切られた葱を平四郎のうどんの中に器用に摘んで捨てると、油揚げを二枚ほど頂戴した。
「いったっだきまーす……あら熱ちちち」
「……」
犬食いをしようとして、うどんの熱さに顔をしかめて油揚げを恨めしそうに見る葉子を横目に、平四郎は斜に構えて冷酒をあおった。
狐憑き…狩鞍(カリグラ)
狩田平四郎が狩鞍となったのは、今より二年前、平四郎が二十一の時であった。
平四郎の家は代々、御木経(オキツネ)と呼ばれる神木を守護する勤めを担っていた。これといって何の使役もない役職であったが、家は二十石取りであり、家族三人が暮らすには十分裕福な家であったと言えよう。
平四郎は狩田家の次男として生まれた。そのとき母、さよは平四郎を産んでまもなく死んでしまった。
平穏な村で、四つ年上の兄の狩田清士郎と、平四郎が実の姉のように慕う娘、里見八代と共に育った。
隣近所に住む里見八代は、御木経神社の一人娘であった。
平四郎らが三人は年も近いこともあり、本当の兄弟の様に幼年期を過ごした。
だが年月は過ぎ、異変が起きた。
その兄と八代の結納の前夜、村の神木に封じられていた四十九の物の怪の封が解かれた。
妖狐―御木経―に兄は取り憑かれ、父と八代を打ち殺すと、その足でそのまま村を遁走した。
平四郎は清士郎を追い、仇討ちを挑んだが、鬼神のような兄の剣にものの二太刀で倒された。
生と死の間を朦朧とする平四郎の体に、御木経の魂封ぜんと、遅れい出た失われし安部清明の使役、妖狐―葉子―が平四郎の体に憑いた。
だが、葉子は半生を得ていた平四郎を自らの狩鞍にすることは出来ず、一人と一匹は一体になれぬまま、半人半妖のこのような姿となったのである。
物の怪に憑かれて利用される哀れな人の肉を狩鞍―カリグラ―と言う。
平四郎は二杯目の冷酒を啜りながら、もう幾度となく考えていた事の始まりについて思い出そうとしていた。
だが…解せぬ。
なぜ、四十九匹の物の怪が復活したのだ。
なぜ、あの時兄上は父上と姉上を打ち倒していったのだ。
そして、なぜ俺は生き残ったのか…
四十九匹の魔物と出会ったあのときに、必ず何かがあったはずだ。
もう二年にも前になる死は平四郎の記憶をずたずたに裂いた。
平四郎に残るは「狩田清士郎討つべし」と村で過ごした記憶の断片しかない。
沢山の事を忘れてしまった。
父の顔も母の顔も、そして八代の顔も…
ただ一つ忘れられぬものは、御木経の邪眼。
狩鞍となった現人鬼―狩田清士郎―
「おい、平四郎、うどんが伸びるぞ」
「お、ああ」
葉子に言われて、平四郎は伸びかかったうどんを胃の中に流し込んだ。暖かい飯を食ったのは久方ぶりのことである。胃の中に心地よくじんわり物を食う満足感が広がる。
宿で飯を食うこんなときは、葉子が霊感の強い者にしか見えなくて、本当に良かったと思う瞬間である。ただ用心に越したことは無いが。
今日のような飯炊きの女房に見られたのは始めてのことであった。
いつだったか、葉子がこう言ったのを思い出す。
「昔はねぇ、私らも、もっと人の目についたものさ。森に山に台所にってね。だけど何て言うのか…今は人が増えずぎちまったのかな。もうこの世に私らのい場所なんて早々に無いよ。ま、人の気の方が強くなったってことさ」
確かに、このような山中の間にも小さいながらも村があり、宿場も出来た。東海道、中仙道と人々の交通はよくなり、人と物の行き来も増えたものだ。
今では戦乱の影は見るまでも無く回復している。
「確かに……物の怪が現れる時代じゃないな」
平四郎はポツリと呟くと、椀に残ったつゆを葱ごと一気に飲み干した。
勘定を払い、表へ出ると、辺りはとっぷりと日も暮れ、店の周りは漆黒の闇に包まれ始めていた。
まだ月明かりがあるとはいえ、常人の目から見ると行灯も持たずにすたすたと歩いてい
く平四郎はどう写ったであろうか。
狩鞍となった平四郎の目には、いつしか夜の方が昼より良く見えるようになっていた。
「ふぁあぁあぁ、さてさ。今日辺りは屋根のある暖かいところで眠りたいもんだねぇ…ま、無理なことだけれども……そうさね、あっちだね」
春とは言え、まだ冷える。狩鞍とて寒いものは寒い。
葉子が察するとおりに歩いていくと、桜の木に囲まれた小さな神社があった。
もう桜も緑色の新芽が出て、風が吹く度に花が散っていた。
「よくまあ、こう寝床を言い当てるものだな」
平四郎も半ば物の怪、狩鞍とはいえ、まだこの辺の勘働きは葉子には敵わない。
疲れ果てた体を人目につかないよう神社の裏へ回り、境内の暗い脇にごろりと横になった。
「あっ…」
平四郎は恐ろしい速さで、片手をつき置きあがると同時に、半身を翻して神社の
屋根の上に飛び上がった。常人の動きではない。葉子も含めて二人文の体重がある。平四郎は軽々と屋根の上で様子を窺った。
桜の花びらが突風に吹かれたかのように、また散った。
呼吸を押さえ、敵の気配を探る。
「…平四郎、敵かえ?」
「シッ…気配が無かった」
通常の人間であれば、どんな暗闇の中でも狩鞍となった平四郎に感じられぬはずが無い。
だが眼下には、桜が舞う中で十二、三の赤い烏瓜の柄の着物を着た少女が、辺りをきょときょとと見まわたしているだけであった。
平四郎の反応があまりにも早かったため、少女には一瞬、大きな黒い影が目の前を過ったような気がしただけであった。
上から暫くその少女を見ていた平四郎は、その様子からとても少女に狩鞍を殺せる力が無いことを判断すると、葉子に目配せした。
「……このような夜更けにな」
「ありゃ、訳ありかな?」
「まあ、そうだろう。普通こんな夜中にあのような若い女がうろつくわけがない」
「あの様子だと大方、若い夜鷹まがいってところかな。あんな年端もいかなそうなのに、人間様も大変だ…ねえ?」
「……俺には、関係無い」
「ふーん、でもそうも言ってられないよ。まだ気がつかないかい?…あんたと同じ狩鞍の匂いをさ」
平四郎はもう一度、一枚の茣蓙を掴んで震える少女に五感を集中させた。
狩鞍の臭い…と言っても、狩鞍には臭いなどありはしない。例えあったとしても、それは、その狩鞍自身の臭いである。あくまで臭いなど寄り代の匂いであって、人間と変わりはしない。それでもなお、狩鞍に関わった人間には匂いとしか言いようのない人外の気配を感じることが出来る。
冷たく、狡猾で、獰猛な、血に飢えた動物の臭いが。
少女からは若草のような匂いの他に、確かに微かにだが、狩鞍の存在感の残留が感じられた。
「しかし……狩鞍にしては随分臭いが薄いな」
「そうさねぇ、だけれども関係無いとは言えないわね」
平四郎はひらりとその巨体を躍らせると、音も無く娘の後ろに立った。
「おい…」
平四郎はその小さな肩を掴むと、こっちを向かせた。
「あっ」
「馬鹿っ!」
葉子が平四郎を怒鳴りつけ、娘が驚きの声を上げた瞬間、葉子は素晴らしい速さで八つの印を空中に刻むと、娘の口の中に何か放り込んだ。
「何を放り込んだか聞きたくないが……何を入れた?」
「…小蜘蛛さ、これでほんの一時だけ痺れるからね。まったく、あんたみたい
のが後ろから声をかけたら、大抵の女は悲鳴を上げるか、気絶しちまうよ」
「……そうか」
少女が落ち着きを取り戻した頃合を見計らって、平四郎は掴んでいた肩を離すと、その場にどっかりと座り込んで、話し始めた。
「俺の名前は狩田平四郎。仇討ちの旅をしている…なぜこのような夜分に一人身でこんな所にいるのだ」
「……夜桜を見ていたの」
葉子のかけた術も殆ど解けたのか、桜の花が落ちる音にすら掻き消されそうな小さな声で少女が答えた。
「夜は危険だ。帰る家があるのならば、帰った方がいい。家族も心配しているだろう」
「ふふふ、こんな男もいるしねぇ…ホント、こんな狸も踊りたくなるような晩は帰った方がいいわよぉ」
驚いたことに少女は葉子の方をちらりと目を向けると、俯いた。
「でも、帰ることは出来ないんです…」
平四郎と葉子はやれやれと声を出すと、少女に訳を訊ねた。
「こんな月の出ている夜は兄様が、お酒を飲むから…苦しむからね。だから帰らない
の」
そう言った少女の目が泥のように濁っているのに平四郎は気がついた。
澄んだ目だったが、何か深い海の陰りがあるように思えた。
ひらひらと舞い降りる桜の花が月夜に冴えて、まるで雪のようだった。
この少女と話していると、現実感が遠のく。
「名前は?」
「菊花…本多菊花……こちらは?」
菊花は葉子に目を向けると訊ねた。
「へえ、珍しいね。今日は二人目だよ、平四郎」
「…きつね様と若い女の人が、ぼんやり重なって見えるよ」
「!……驚いたねぇ」
葉子が驚くのも無理はない。今まで葉子おろか狩鞍さえも感じられない人間が多かったからだ。魂の影を見られるのは得の高い僧侶か、修行を積んだ山伏ぐらいだと思っていた。
この少女の魂は少々現世から離れてているのかもしれない。
「でもね、兄様は普段は優しいの。ただ少し弱いだけなの…だからね、仕方ないんだ。菊花が守ってあげなくちゃならないの、菊花がずっと一緒にいて、守ってあげなくちゃならないの…」
菊花は落ちゆく桜に向かって笑った。
ぞくりと背筋が寒くなるような笑いだ。
菊花の言動はこの年頃の子供にしたとしても、随分危うい不安定さがある。
ギヤマン細工のような硝子の繊細。
脆さの美がここにあるようだった。
時々、雑木林の闇を見て溜息をつく姿はとても十二、三歳のようには見えない色があった。
「しかし、これはまたあっちの方に行っちゃった感じだねぇ」
「ああ、だが取り敢えずこいつの…」
「菊花…」
「そうだな、菊花の家まで連れて行くか」
「やれやれ、大概にお人好しなことで。餌になるかもしれないんだから、このままほおっておけば良いものを」
「本当、オヒトヨシなことで」
菊花は葉子の真似をするとにんまり笑った。
狩鞍の手がかりが得れるかもしれないのだぞ、という言葉を言っても無駄だろうと飲み込んで、含み笑いをする二人の前で、平四郎は大きく溜息をつくと、菊花を連れて菊花の言う初芝の外れまで行く事にした。
「兄様!、兄様!、お客さんだよ!」
平四郎達にとってはまだまだ夜半前であるが、普通の町民などならもう眠りにつこうかという時刻である。
そんなことなどお構いなしか、菊花は大きな音を立てて戸を叩くと、兄を連呼した。
「お帰り、菊花」
引き戸が静かに開けられ、中から痩せた素浪人風の男が出てきた。恐らくこれが兄であろう。思っていた程よりも乱暴そうな男ではなく、むしろ身を窶しても折り目正しそうな男であった。
「今日はこの人たちに送ってきてもらったのよ」
「ふむ…犬はどうした」
「ふふ、今日は一緒ではなかったのよ」
「そうか…このような夜分にわざわざ妹を送っていただき、真に痛み入ります。私、本多静馬と申します」
立ち振る舞いに無駄の無いことをみると、元は武家の出身か、使える方だろう。腰の大小も戦向けの太いものだ。
「いや、ご丁寧に…このような夜分に申し訳ございません、俺は…私は狩田平四郎と申します」
「葉子にゃ」
菊花には葉子が見える様であったので、平四郎は兄もそうかと心配したが、静馬は眉ひとつ動かさなかった。
暫くそうしていたが、平四郎にはこの男の考えを計ることはできなかった。
「平四郎様はもうどこか宿をお取りであろうか」
「いや、今日は幸いに雨も降っておらんし、あの先の神社で一眠りしようとしていたところです」
「平四郎様は仇討ちの旅をなさっているそうよ」
「ほう、それはそれは。ならば是非今宵はお泊まりください。このように妹と二人、家の中は少々寂しいです。これも何かの縁ではありませんか…どうです家にお泊まりになりませんか」
「平四郎様、今宵はお泊りになっていけばよろしいわ…ほら、桜の花もありますわ」
菊花は、肩についた桜の花を掴むと、ひらひらと落とした。
「まあ、今夜は夜桜でも眺めながら、疲れた体に一献どうですか」
この兄弟、見ず知らずの人間に、どうも親切過ぎるな。
平四郎は葉子をちらりと見たが、葉子は顎先で家の中を指しただけであった。
行けば良いんじゃないの?虎穴に入らずんば、虎子を得ずってね。妖しい事は十重承知よ、といった感じであった。
「……ではお言葉に甘えて泊めてもらいましょう」
家の中はがらんとしており、箪笥がひとつあるだけであった。家の外見と違って中は、良く手入れされている様でこざっぱりしていた。
「どうぞ、酒を飲む相手もいませんで、ついぞや先ほどまでは一人で飲んでいたのです」
静馬は茶碗に並々と酒を注ぐと、平四郎の前に差し出した。
「これはかたじけない」
痩せて疲れ果てたような顔をしていたが、静馬は割合に人のよさそうな感じであった。
「つまみなどとも言えませんが、どうぞ」
家の中には狩鞍の気配すらしない。あの時、菊花に感じた狩鞍の気配は気のせいであったのだろうか。
静馬が進めてくれたふきの辛し和えなどをつまみながら、ふと疑問に思った。
穏やか過ぎる、な。
「家内に、酒を飲む相手もいませんですと、肩身が狭くて」
「飲まぬ方が良いのです。平四郎様からも言ってあげて下さい」
平四郎と静馬が酒を飲む横に菊花はちょこんと座って、兄の方を笑っている。
仲の良さそうな兄弟であった。
道中のことや先の戦のことなどを話しているうちに、いつしか菊花は、兄の横でうとうとし始めた。
「これにはいらぬ苦労をかけまして…」
「良い妹君でござらぬか」
「そうですな……そう、このようにいつまでも暮らしていければ良いのですがね…おっと、酒が過ぎましたかな。平四郎様も長旅で御疲れでしょう。そろそろ休むとしますか」
平四郎は小さな客間に通された。
「では、ごゆっくり休まれてください」
静馬はそう言って部屋を後にした。
「…腑におちんな」
布団の横にあぐらをかいて座る。葉子はといえば布団の方に伸びていた。
「あの静馬って男、絶対あたしの事気づいてるね」
「葉子のことも会話には上らなかった…実際に気づいてないだけなら、どこがおかしいというわけでもないが、解せぬ」
「ま、これじゃ今日は様子見だね。突然切っちまっても良いわけだけど、あとで間違っていたら、それじゃあねぇ」
「葉子も物騒なことを言うようになったもんだ」
「ははは、人の夜がこんなにも物騒だもの。狐も人目につくときは、尻尾を隠して物騒になるさ」
平四郎が横になると、葉子が行灯の火を消した。
「じゃ、とりあえずあたしが先に寝るよ…獣が尻尾を出すのは丑三時って決まっ
てるさ……おや…す・・み」
「ああ…」
葉子は言った端から、もう寝てしまったようである。
「夜は長い…」
暗い屋根の梁を見つめて平四郎は呟いた。
どんよりとした温かさ風が平四郎の頬を撫でる中、溶けた赤土のような血の泥土の中を歩く。頭上では赤暗い太陽が平四郎を照らしている。
水面に写る黒い影を見ながら一歩一歩進んでゆくと、ゆっくりと澄んだ声が聞こえてきた。
同じよ。
貴方も私も。
自らの手で愛しいものを壊して、受け入れてくれる処を拒絶したのは。
貴方は兄様と姉様。
私は兄様。
「…何の事だ」
ふふふ、知っているの。
私、知っているの。
貴方が姉様を…殺したんでしょ。
「…違う」
貴方が兄様を…殺したんでしょ。
「…違う」
忘れた振りをして、仇討ちだなんて笑えもしないわ。
姉様に拒絶されたから?
「違う」
それとも兄様を憎んでいたから?
「違う……俺は、俺は…」
あの人がいる限り貴方の世界は貴方のものにならないから。
だから殺したんでしょ。
だからあの御木経の木下で刀を抜いたのでしょ。
身の丈がいくら高くったって、剣の腕がたったって、世界は貴方のものにはならない。
どんなに大切なものも貴方には残らない。
貴方は何も持ってはいないのだから。
「ただ俺を見ていて欲しかったんだ…認めて、認めて欲しかったんだ」
嘘。
また建前を。
まだ自分のことを善人だと思っているのかしら。
自己中心的で、欺瞞に満ちて、兄の足元にも及ばない嫌な子。
いっそのことなら自害してくれれば良いのに。
皆そう思っていたわよ。
姉様も兄様も父様も…死んだ母様も。
「俺ではない!…俺の所為では…」
いいえ、違うわ。
誰が斬ったの。
誰が殺したの。
刀を抜いて、誰が殺したの。
細い首を絞めて、誰が殺したの。
臓物を撒き散らせて、誰が殺したの。
誰が殺したの。
「知らん!知らないんだ!」
ふふふ、本当は、始めから貴方も狩鞍。
呪われた不具者。
血の情欲に、獣に、
狩鞍になりたかったんでしょ。
姉様を犯したかったんでしょ。
兄様を殺したかったんでしょ。
そして、自らの欲望を受け入れて、人の生を捨てた。
望みを果たしたのになぜ、受け入れないのかしら。
罪悪感?
嫌悪?
それとも、
それとも、その貴方の体に刻み込まれている、その顔の所為?
貴方は誰の魂を共有しているのかしら。
兄様と知らない女の人が行ってしまう。
悲しみが小さな心を浸す。
俺達がどうにかしてやろう。
俺達がどうにかしてやろう。
女の人を殺したら、兄様はお酒を飲むようになった。
私が殺したのよ、兄様。
私が殺したのよ。
貴方と共に、私は壊れてしまおう。
あの世とこの世の六道の果てまでも。
この世の終わりがくるときまで、すべてを受け入れて兄様と一緒にいよう。
久遠の時間を。
「違うんだ!」
頭の中を記憶の断片が渦を巻いた。
「…平四郎!平四郎!」
この顔が、魂が、俺を狂わす。
泣きながら平四郎は葉子の首を絞めた。
「助けてくれ、頼む…助けてくれ、姉上…」
みしみしと葉子の首が軋む。
「…ヘイ…シ……ッ」
葉子は握り拳を固めて、力いっぱい平四郎を殴りつけた。
常人が打ったのとは、比べ物にならない威力であった。
平四郎はもんどうりをうって壁に叩きつけられる。
「……まったく、他の狩鞍に殺される前に、お前に殺されちまうわ」
荒い息をつきながら、葉子は平四郎の首に浮かんだ手の跡を見ながら言った。
「……この馬鹿野郎…あんたの痛みは私の痛みだよ」
平四郎の顔に葉子の涙が一滴落ちた。
「…この馬鹿野郎…こんなに苦しいのなら、狩鞍になんかなるんじゃ無かったよ…本当に、この大馬鹿野郎めが…」
「…その人は私達の仲間」
「!…誰だい!?」
障子の向こうから声が聞こえた。
「血に塗られた四十九匹の狩鞍の一人」
「来やがったねぇ」
「人を捨て、自ら修羅の地獄に落ちた哀れな羅刹」
月明かりに浮かんだ影が、大きく膨れ上がった。
「ほら、起きな!奴さんが来たよ!」
「物の怪に操られる人の肉を狩鞍と言う」
障子が勢いよく開き、廊下の奥から菊花の顔が覗く。
瞳は炯炯と輝き、唇の朱の色は白い肌に映えた。
「思い出させてあげる…」
菊花が細い指先をこちらに向けると、恐ろしいほどの勢いで巨犬が平四郎達に襲い掛かった。
葉子はだらりと垂れ下がった平四郎にお構いなく後ろに飛び引き、障子を破って外に出た。
表はいつの間にか小雨が降っていた。
月がゆっくりその姿を厚い雲に消す。
「犀(サイ)!」
「久方ぶりじゃねえか、葉子」
犬の大きさは子馬ほどもあろうか、黒い漆黒の犬であった。犬の口から語られる人語は唸りにも似たおぞましい響きがあった。
「彼此二百年いや、三百年振りぐらいか?また、美しさに磨きがかかったな…一体、どんな旨い魂を食らったのだ」
黒い穴の中に開いた朱の色の口中が、てらてらと光る。
「…けっ、あんたの方は相変わらずじゃないか、汚ねぇ涎をこっちに飛ばすんじゃないよ」
「口が悪いのも相変わらずだ。だが今回は、泣いて許しを請うのは貴様の方だぞ」
「よくそんな口が叩けたもんだ、その蛆でも沸きそうな股座に尻尾でも突っ込んでな!」
「良かろう…その男共々腸引き裂いて臓物を食ってくれる」
二匹…たしか犀は二匹いたはず…ちっ、こんな時に記憶が戻ってないのが悔やまれるよ。
葉子は視界の片隅で、鈴虫が跳ねるのを見逃さなかった。
刹那、地中からもう一匹、犀の犬が現れる。
葉子は横凪に半妖と化した腕を突き出す。
犀犬の目を抉り出そうとしたところで、首を捻りこまれ、避けられた。
「二百年たっても成長しないね…」
「今や、半妖のお前に何ができるというのだ、たっぷり舐り殺してくれる」
「しかし、うまいこと気配を隠したもんだ、狩鞍の気配を寸分たりとも見せないとは上手くやったね」
「菊花は我々の狩鞍ではないのでな」
「狩鞍なしでも今のうぬなら、軽く殺せる」
菊花は狩鞍ではない?じゃあ、静馬のほうか?
どっちにしろ平四郎が目を覚まさなくっちゃ、殺されちまうのも時間の問題だ。
「平四郎はどうしたの?」
「…!」
いつの間に背後に立ったのか、菊花がいた。
小雨に濡れ、髪と着物が妖しく張り付いて、笑った。
「女の方は首だけ残して殺しても良いよ」
気を散らされた瞬間、犀の犬が一匹足りぬことに気づく。
「その首貰らい受けたっ!」
「上!」
引くには遅すぎる。
腕の一本ぐらい持たせてやるわ、と葉子が思った瞬間であった。
頭上ら襲いかかってきた犀犬が真横に吹っ飛んだ。
「……いい気になってるんじゃねえぞ」
平四郎がゆっくりと下半身の主導権を握り起きあがった。
「平四郎!」
「やれやれ、何があったかしらねえが、犬コロか…狩鞍はどこだ?」
葉子が振り返ると、そこにはもはや菊花の姿は無かった。
「妹の方みたいよ」
「嫌な夢を見た…」
「…えっ?」
「何でも無い、早くこの悪夢に終わりを告げようじゃないか」
平四郎はそう言うと、両袖の中から腕先ほどの先の曲がった厚手の鉈を取り出した。
「女子供でも容赦ねぇ、狩の時間だ」
平四郎の中に熱い狩鞍としての喜びがあふれる。
血、暴力、破壊的な衝動、力を振るえるこの喜びを。
「構うことはねぇ、まずは右側の奴だ」
葉子はそのどす黒い炎にびくんと震えた。
「…う、うん」
平四郎の姿勢が低くなった瞬間に二間ほど離れた犀犬の足が飛んだ。
そのまま駆け込んで、崩れ落ちる頭を鉈で叩き割った。
同時に葉子が深深と突き刺した手刀をゆっくり引き抜いた。
ほんの二秒ほどであろうか、虫の一鳴きの間に犀犬が一頭崩れ落ちた。
夥しい血潮が噴出し、二人を濡らす。
一匹目の犀犬は何が起こったかわからぬまま死んでいったであろう。
平四郎は投げつけた鉈を地面から引き抜くと、ゆっくり次の獲物の方に向いた。
「狩鞍の力を甘く見たようだな、犀とやら。見た瞬間には殺さないとな、次の機会って奴は無ぞ」
葉子は御木経から削り出した小さな神木の杭を死んだ犀犬に突き刺した。
「封」
白い光が小さくあったかと思うと、瞬く間に犀犬の体が吸い込まれていった。
「酷い…」
菊花は残った犀犬に寄り添って言った。
「…良い狩鞍だな、葉子。だがな、今回は義は我々にあるのだぞ」
「何を…」
「その男が何をして、狩鞍となったかお前も知っているはずだ。兄を殺し…」
「言うな」
「本当のことであろう、己の欲望と羞恥の為に親族郎党を殺害した上に、我々を討つだと?聞いて呆れるわ」
「…でもね、人に仇を成すあんたらを野放しにしておく訳にもいかないさ」
「それは我々とて偶さかには肉を食う。しかしな、情欲におぼれて殺すことは無いぞ。生きるために他の命を狩って何が悪いのだ。人だけだ。食うため意外に命を取るものは。しかも増えすぎた人を見よ。この二百年の間に動物が減った、森が切り倒された。我々の世を守らなければならない。蠢く人の数を減らさねばならん。見たか、人の心のどす黒さを。葉子よ、それは狩鞍となったお前が一番知っているはずだ。二百年前とは立場が違う」
「……それでもあたしはあんた達を狩らねばならない」
「下らんな、何故、死んだ者にそこまで尽くす…」
「あたしだけじゃない、あたしだけじゃないんだよ…」
「…ケッ、いつまでも能書きを…いいじゃねえか、他の命を狩ろうが弄ぼうが。狩猟だよ。俺はお前達を狩って狩って狩りまくってやる。気持ちがいいのさ、狩りを楽しめるのは人間だけだ、結構だね。俺は喜んでお前らを狩り尽くしてやる。物の怪に殺される奴は力が足りぬだけのこと。俺達を殺したきゃ、殺せばいいさ、出来ればの話だがな」
葉子にはわかる平四郎の魂が小さく震えるのを、そしてその魂が黒く塗りつぶされていくのを。
これは狩鞍となった所為なのであろうか、それとも…人の性なのだろうか。
葉子にはわからない。
でも、あんたは大馬鹿者だ。
悲しい嘘吐きの大馬鹿者よ。
「手前も狩鞍つれて何を言ってるんだか…猟犬の心意気って奴はどこにいった!戦って俺を殺してから御託はぬかせ!」
「愚かな…」
犀犬は菊花を守るように平四郎たちの前に立ち塞がった。
「いくぞ!」
「応!」
足元が弾け、平四郎の右手に激痛が走る。
地面から顔の無い犬が突き出て、腕を捕った。
「地獄で死んでいった者達に詫びるがいい、平四郎!」
犀犬が弾丸のような速度で平四郎たちに襲いかかる。
「ジジイは説教好きで一本調子なんだよ」
平四郎は噛み付かれた腕を支点に宙に飛ぶと、葉子に犀の使いの頭を叩き割らせた。
そのまま前回転して襲いかかる犀の首を落とした。
「おい、なんで狩鞍を使わなかったんだ」
「……言ってもお前にはわからぬこと…菊花は狩鞍ではない」
ごぼごぼと血の泡を吹き出しながら犀犬は答えた。
「菊花は弱っていた我々を助けてくれた…お前らが来なければ菊花の生きている間、一生仕えても良いと思っていた…優しすぎたのだあの兄弟は」
「そうかい…だがな物の怪に見入られたものは死ななければ、開放されない」
「待て、後生だ…」
「葉子!」
葉子は御木経の杭を犀犬の頭に打ち込むと小さな声で言った。
「封」
犀犬がまた同じように光の中に納まる。
「これで、やっと四匹目だな」
「ねえ…菊花はどうするの?」
葉子は天を向いて惚けたような菊花を見つめて平四郎に聞く。
「殺すさ…狩鞍となった人は死ななければ開放されないと言ったのはお前だ」
「…そうさ、でも」
月明かりに照らされて、菊花は青白く光って見えた。
深い海の底の泥のような目は、今は薄く透き通っている。
だが、その中には人の魂は見られない。
「どうせもはや死んだも同然、主の抜けた殻よ」
平四郎は血まみれの鉈を振り上げると、一寸止まった。
「…兄様?」
「平四郎!待てい!」
この騒ぎを聞きつけて、静馬が走ってくるのが見えた。
左手はすでに刀の鯉口を切っている。
三足ほどの距離に近づくと静馬は構えた。
抜刀か…
「妹を、妹を傷つける奴は許さん」
「…物の怪に捕り憑かれても、何もせずにしていた男がよく言えたものだ」
「!…それは」
「自分の妹をこんなにしたのは貴様の身勝手ではないか!」
「……」
「殺す」
平四郎は静馬に背を向けると、菊花に向き直った。
「菊花を殺されるぐらいなら、お前と刺し違えて死んでくれるわ!」
平四郎が鉈を振り下ろすと同時に、静馬は抜刀した。
夕刻、初芝から抜ける街道を獣のように狩田平四郎は駆けていた。
背には静馬から受けた傷が開き血を噴き出している。
血の匂いを嗅いで物の怪どもが平四郎たちを追ってくるであろう。
早朝から走りっぱなしだ、狩鞍である平四郎にも疲れが見えてきた。
「どうやら、逃がしてはくれぬようだねぇ」
「……葉子、呼吸が乱れる…黙っていろ…ハッ、俺が逃がしはしないわ」
「なぜ、菊花を殺さなかったのさ」
「…あの腕だ、静馬は手強い。左手一本で勝てるような相手ではなかった」
左手一本で物の怪を殺す男がねぇ。
言葉には出さなかったが、葉子はあの兄妹に幸あらんことを願った。
葉子と呼ばれた女は、夕日に照らされて血の色のような赤い桜の花びらを咥えて笑った。
「柄にも無い」
一匹と一人は獣のように林の中を走り続けた。