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湖の上に花を咲かせる人

写真

 むかし僕は両親の問題で、一時的に仙台の爺さんに引き取られた事があった。
なにしろ五、六歳のことなので、今では薄らぼんやりとしかその時のことを思い出せないが、ほんの一、二ヶ月間のことだったと思う。
 母親に手を引かれ、林の隙間に見える木漏れ日を眺めながら、僕はここに置いていかれるのかもしれないと思って少しばかり悲しくなったのを覚えている。
 ツクツクホーシがたくさん鳴いていたが、とぼとぼ母親に連れていかれる夏の山中は、それほど暑くなかった。
 爺さんは寡黙な人だった。
顎に生えた白い無精髭が無造作に伸びていて、まるで熊のような雰囲気だった。
爺さんはこの時代に自給自足で暮らしているような男だったので、僕が今まで見たその辺のどんな大人よりもがっしりとした体格をしていた。
 はっきり言えば恐そうだった。
 もしかするとなんとなく『風の谷のナウシカ』と言うアニメにでてくる、ユパという爺さんに似ていたかもしれない。
 今思うとあの爺さんは、僕が思っていたよりも爺さんではなかったのかもしれない。背筋はしゃんとしていたし、歩みもしっかりとしていた。
 ただ幼い僕が、初めて会ったとき見た爺さんというイメージが、いつまでも頭から離れない。
 母親は爺さんと二言、三言交わすと夜まで僕と一緒にいて、そして東京へ帰っていった。
 僕は悲しくなかったと言えば嘘になるが、さんざん喧嘩をしていた両親を見ていて、泣いたって、どうにもならないことぐらいもう知っていた。
それよりも隣にいる熊のような爺さんとこれからどう暮らしていくのかが、心配だった。
 そこに着いた当初、爺さんは僕が来て怒っているのではないだろうかと、いつもびくびくしていた。
 けれども爺さんは僕を気にするようでもなく、ただ毎日を自分の一定のリズムで生活していた。
 僕も僕で毎日をのんべんだらりと外で蝉を採ったりして、遊びまわっていた。
 ある日、爺さんが湖に出かけたとき、僕は小刀を持ち出して遊んでいて太股をざっくりと斬った。
 僕は痛いよりも先に爺さんに怒られるのが恐くて、どうしようかと思った。
痛みをこらえて手ぬぐいで、傷口をぐるぐる巻きにしたが、血はなかなか止まらなかった。
白い手ぬぐいが墨の上に落とした半紙のようにみるみる間に真っ赤に染まっていった。
誰か助けを呼ぼうか、それとも、もしかしたら爺さんが帰ってくる前に、直るんじゃないかという思考が頭の中でぐるぐる回って、僕は縁側の下あたりに座って、痛みをずっと我慢していた。
 その日は爺さんが早く帰ってきて、縁側にいる血まみれの僕を見つけると、片腕で僕を引っつかんで家の中に連れていって、傷口の上の方をしっかりと縛ると応急処置をして医者を呼んだ。
 その傷の所為で僕は熱を出して、四日間ほど寝込んだ。
傷は残ったが、命に別状はなかった。
 その時も爺さんはほとんど何も喋らなかったが、畑にも湖にも行かないで付きっ切りで看病してくれた。
 一週間ぐらいが過ぎて、僕が元気になった頃、爺さんは例の小刀を持って来ると、僕の頭の上に一発まさに岩のような鉄拳をくれた後「使い方を教えてやる」と投げ捨てるように言った。
 その鉄拳のあまりの痛さに僕は涙したが、僕は嬉しかった。
 その日の夜のご飯はレンコンだった。
爺さんは、たぶん僕との記念日にレンコンを食べた。
だからレンコンは爺さんの機嫌のいい食べ物だった。
 僕は小刀の使い方を覚えた。
 その後も暮らしていても必要なときにしか殆ど口を開かなかったが、そんな爺さんが僕はだんだん好きになった。
 それからあっという間に月日はたって、両親はまた何度目かの仲直りをして、僕を迎えに来た。
 父親は、ばつの悪そうな顔で「元気か?」と言った。
 母親は泣き出して、僕を抱いた。
 爺さんは、いつもと変わり無く無口で、そして少し怒っているようだった。
 帰り際爺さんが言った。
「また来い」
 僕はこの両親より爺さんのことが好きだった。
 家に帰る日の夜、爺さんは僕を小屋から連れ出して山の奥にある湖に連れて行った。
湖の上には月が小さくゆらゆら揺れていた。
静まり返った山の中は月の光に照らされて、青い銀色の光に包まれていた。
そこはいつもの仙台の山の中ではなくて、何処か遠い外国の地のようだった。
 爺さんはやはり無言で、湖の側まで来ると湖の真ん中を指差した。
 そこには黒い茂みのようなものが沢山浮いていた。
「お前には教えておく、大きくなったらあそこに行け」
 爺さんはそれだけ言うと、十秒ぐらい月を見た後「帰るぞ」とだけ言った。
その間僕は爺さんを見ていた。
 うまが合うとでも言うのだろうか、何も話さなくても僕たちは上手くやっていけていた。
 それから3年か4年が過ぎて、爺さんはぽっくりと死んだ。
山を下りた町で酒を飲んでいて死んだ。
気分が悪いと言ったので、店で暫く寝かせていたら、大きないびきをかいてそのままあの世に行ってしまったのだ。
実にあっけない最後だったが、あの小屋で病気になって、独りぼっち弱って死んでいくのより、ぽっくりいって良かったんじゃないかと思う。
 葬式も両親と爺さんが親しくしていた数人の人での形だけの静かなものだった。
 身辺整理のためうちの家族が小屋に行ったが、爺さんは死に際を知っていたのか、殆どのものは処分されていた。
 爺さんが死んだ後の小屋は、ずいぶんおんぼろに見えた。
爺さんと言う魂が死んでしまって、この家も死んでしまったのかもしれない。
 それ以来僕はそこに行ってはいない。
 それからまた何年かが過ぎた。
 僕は高校を卒業して、大学受験に失敗して浪人になった。
彼女とも別れてしまったけど、いい経験になったとも思う。
僕は夏の夏期講習をサボってここに来た。
今まですっかりと忘れていたのに、夏期講習の後半の四日目の朝、突然この場所を思い出した。
 そして今、僕は爺さんの作った蓮の花の島にいる。
湖の上には蓮の花が咲いている。
湖の一面と言う一面に、僕の視界の全てに、空以外の空間に蓮の花が咲いていた。
殺風景な予備校の教室に比べて、それは恐ろしく美しい光景だった。
 僕は何かに導かれるようにして、よたよたと夢遊病者のように爺さんの作った木製の足場を歩いて、湖の真ん中に向かった。
 ぐるりとした足場を進んでいくと、中心には一人乗りの小さな船が一艘、浮いていた。
船は青い工業用の丈夫なビニールシートで覆われていた。
 僕はちょっとの間考えた後、あぶなっかしげに埃だらけのシートを外すと中を覗いた。
 そこには小さな布に包れた細長いものがあった。
ゆっくり幾十にも巻かれた布をとると、中には古そうな油紙に包まれた小刀があった。
 一瞬の沈黙の後、僕はここ数年出したことの無いような大声で笑って、そして足を滑らせて蓮の島に落ちた。
 僕は笑いながら思った。
 レンコンは僕たちの記念すべき日の食い物だ。
 大きな水飛沫の花をあげて僕は叫んだ。


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